東国山 中養院 西念寺
東国山 中養院 西念寺

西念寺 由来

東京 根岸 西念寺と身代り地蔵縁起

 

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小野のお通のこと

美濃北方の地侍、小野正秀という者に於通(=阿通、お通)という娘があった。読みはいずれも「おつう」である。於通は幼時より聡明にして美意識に優れ、一説には常人には見えぬものが見える「天眼」であったともいう。
九条稙家に和歌を学ぶなど、諸学諸芸に通ずる才女として近隣にその名を響かせていた。
「お通伝説」には、もうひとつ、作州岸本家の小野於通のことが混在する。この娘は柳田國男の『妹の力(いものちから)』の一章「小野於通」に出てくる人物である。こちらも技芸典籍に通じた才媛。災害を退け、病を癒す「天眼通」を持っていたとされる。作州岸本家ではそういう特別の力を持つ娘に「お通」という名を付ける習慣があったという。
二人のお通の伝説の混在を念頭において、ここから先を読んでいただきたいと思う。
さて、これは美濃のお通のことだが、請われて池田輝政の家臣に嫁したこともある。結婚という容器はその才能には小さすぎたとみえ、やがて自立して織田信長の知遇を得、仕えた。信長に語ったとされる浄瑠璃物語が有名で「浄瑠璃の祖」ともされる。
本能寺の変、山崎の合戦などの政変の後、関白秀吉に請われ、北政所の侍女となり、秀吉亡き後は、秀頼の正室千姫を指導した。
大坂落城の際、千姫と共に脱出。大御所徳川家康のたっての招きにより駿府城へ。
江戸開府に伴い、江戸城に入り、将軍家大奥の有職、行儀作法の指導にあたることになった。遠く派祖小野篁以降、小野氏とその一族は、学問芸能に秀でたもの多く輩出し、その門流は諸所に祀られているが、このお通もまた、織豊政権から幕藩時代まで、高い能力を買われた、一種、芸術家にして高級官僚、まさに元祖キャリア・ウーマン。信長、秀吉、家康を知る戦国時代終焉の生き証人といえる女性であった。

お通と身代わり地蔵のこと

さて、それは元和2(1616)年のことであった。この小野お通が、あるとき宿下がり(有給休暇)で、呉竹の根岸の里に風雅に遊んだ日のこと、通りがかりの稲田の水が眩いばかりの光明を発しているのを見たのであった。この世にあって「六神通」を得たとされるお通のことである。これは不可思議無量のことと、じっと近寄れば一体の地蔵尊が横たわっているではないか。お通は、その尊さに深く感じ入って、急ぎ拾い上げ抱きしめて、供の者に命じ、ただちにその場所に草庵を結ばせ、丁重にお祀りしたのであった。

それから14年の歳月が流れる。京の都より奥州へ下る布教の旅の道すがら、高徳の誉れ高い的山上人(願蓮社勢誉的山大和尚)が、この地を通りかかると、なんともいえぬ尊いお貌をした地蔵尊が、いまにも朽ち果てそうな草庵に祀られているのを拝し、深く心を動かされ、その傍らに3721日の間参籠し、一心に祈ったところ、その結願の日に有難き霊験あり、「諸願に代わらむことを以て本願とす」との夢告を得たのであった。
的山上人は歓喜して、この阿通立願の尊像を「身代わり地蔵尊」としてあらためて讃え祀り、一堂を建立し、恵心僧都一刀三礼の阿弥陀三尊を安置し、ここに東国山中養院西念寺を開山したのである。
時、寛永七(1630)年のことと寺伝に残されている。
爾来、380有余年。江戸148所東方6番、また根岸古寺札所巡り第四番札所として、地元の人々の深い信仰に護られ現在に至っている。
古い伊勢音頭の歌詞に、
♪花は上野か 染井の堤 今日か明日(飛鳥山)へ 日暮し(日暮里)の
君に逢ふ路(王子)の狐 鼻赤 いろはの女郎衆に招かれて うつらうつら と
抱いて寝ぎし(根岸)の身代り地蔵を横に見て
吉原五町廻れば 引け四つ過ぎには 間夫の客 上りゃんせ
と、遺されていて、上野、染井、飛鳥山、日暮里、王子、吉原と地名の並ぶところ根岸のみ「身代り地蔵」と特定していることが注目される。

生粋の下町、根岸。文人墨客の里

「江戸名所図会」には「呉竹の根岸の里は上野の山蔭にして幽趣あるが故にや。都下の遊人多くはここに隠棲す」とある。
画人として有名な酒井抱一は文化6(1809)年から下根岸の雨華庵に住んだ。儒学者、亀田鵬斎。浮世絵師、北尾重政も文政3(1820)年頃の根岸住人。
天保六年には文人だけでも30名を数えた、という。
また、根岸は山茶花でも有名。「山茶花や根岸は同じ垣つづき」の句があり、「根岸紅」の名を冠された山茶花があった。
明治27年から35年まで夏目漱石の盟友にして定型韻律詩の泰斗、正岡子規は没するまで上根岸に住んだ。高浜虚子と河東碧梧桐が日参したこの根岸短歌会の所在地の旧地番は上根岸82番地。これは偶然だが、当西念寺の旧地番は中根岸82番地であった。
また、子規の人脈とは別に、明治中期、東京・根岸周辺に居を構えた文人たちの集団があった。その名は根岸党。
彼らは根岸を中心に活躍し、酒宴や旅に遊び、そして書き描いた。
根岸党に名を連ねるのは幸田露伴、森鴎外、岡倉天心、饗庭篁村、森田思軒等々。まさに綺羅、星の如くというべき一群である。

 

浄土宗 東京 根岸 西念寺

宗派名称 浄土宗
宗祖 法然上人(1133年―1212年)
開宗 承安五(1175)年
称名 南無阿弥陀仏「ナムアミダブツ」
本尊 阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)

阿弥陀三尊とは

阿弥陀如来を「中尊」とし、中尊に向って右側に「左脇侍」の観音菩薩、向って左側に「右脇侍」の勢至菩薩を配置する三尊形式のことであります。根拠は古く観無量寿経に依っております。
観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされます。
西念寺は東京根岸、生粋の下町にある小さなお寺ですが、この本尊阿弥陀三尊は端正壮麗、衣の裾模様には往時の粹筋の紋様が入っているという、風流にして貴重な文化財でもあります。
お経 釈尊の語られた『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』(浄土三部経)を中心にした諸経。

浄土宗の本願とは

阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵菩薩と申された頃、48の誓願をおたてになられました。その誓い、願いのすべてが成就してみ仏になられたのです。その第18願に「どんな人でも、心から極楽浄土に往生したいと望み、念仏を称えるならば、必ず、私の国(極楽浄土)に迎えてあげましょう」という万人救済のお誓いがあります。その願のことです。

宗祖法然上人とは

幼名を勢至丸と申され、9歳にして父親を亡くされます。夜討にあい非業の死を遂げたのです。その父の末期の言葉を守り、仇討をやめて仏門に入ります。やがて成人して智慧第一の法然房として比叡山にその名を響かせますが、なおも満足できる教えを得られず、30余年にわたって、ひたすら経典を読み返す求道の日々を送ります。そして、ある日、ついに「念仏を称える者はすべて救われる」の一文に出会い、浄土宗をお開きになったお方です。